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H I S T O R Y
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■1984年、22歳という「遅咲き」のレースデビュー。
しかし和田はこのレースでポール・トゥ・ウ
インという離れ業をやってのけ、
鈴鹿シルバーカップレースNSシリーズ(AE86)に旋風を吹き起こす。
翌年、自己メンテながらいきなり全日本F3選手
権にスポット参戦、フォーミュラの世界を目指す様になる。
■87
年には全日本FJ1600クラスへフル参戦、服部尚貴、野田英樹といった強豪を相手に
鈴鹿・西日本シリーズのダブルタイト
ルを獲得。
同年、最も優秀な新人に与えられる「高橋徹メモリアルトルフィー」を授賞する。
■88
年以降は資金難、ノースポンサーによりステップアップする機会を掴めずも、自己資金でF3選手権にスポット参戦する。
■しかし89
年後半には(株)カプコンのビッグスポンサーを射止め、
90年にはF3選手権フル参戦が実現、シリーズランキング3位の好成績を残す。
同年、
F3世界一決定戦でもあるマカオグランプリに選抜参戦、
今をときめくミハエル・シューマッハ、ハッキネン、アーバイン、フレンツェン、ミカ・サロ、服部尚
貴らを相手に9位、
続くユーロ・マカオ富士グランプリでは一人気を吐き、日本人最高の6位をゲットして見せる。
■91
年には全日本F3000選手権へステップアップ。
全日本グループAシリーズにもフル参戦し、フジテレビ主催の「インター
テック」のメインキャラクターもこなす。
後半、椎間板ヘルニアを患い途中断念を余儀なくされるも、92年にはトレーニング治療で再度復帰。
外人ドライバー
のひしめく中、ここ一発の速さを見せるパフォーマンスを見せる。
■94
年辺りになると日本の景気も低迷し、バブル経済崩壊と共にスポンサーも撤退。
そんな中、自らレーシングプロジェクト(有)
RQ‘Sを設立し、代表取締役とドライバーの「二足の草鞋」をこなすようになる。
■95
年にはN1耐久シリーズの総合シリーズチャンピオンを獲得し、翌年JTCCにプライベートチームで参戦、
JGTCにもスポッ
ト参戦するなど「ハコ車」へ意欲的にアプローチをしていく。
■96,
97,98年とFIA鈴鹿1000km耐久レースにヨーロッパチームとのジョイントにより連続表彰台をゲットしてみせた。
97年以降のJGTCシリーズにあってはランボルギーニ・ディアブロGT−1の開発にあたり、
GT−500クラスの中にあっては
プライベートチームでありながらシングルポジションをゲットするまでに熟成させ、
「速さ」に加えて開発能力の高さを周りにアピールする。
■2000
年は初旬からアメリカの伝統的なレース「デイトナ24時間レース」にも参戦。
国内のJGTCでは心機一転GT−300ク
ラスへ新車「ポルシェGT3R」で参戦し、
最終戦まで熾烈なタイトル争いを展開するも僅差でクラス2位に甘んじる。
■2002年
には再びランボルギーニ車にてJGTCに参戦。
マシンはディアブロから、2004年にムルシエラゴ
へ。
■2003年からスーパー耐久シリーズにも4クラスにてS2000で参戦復帰。
■2005年からJGTCはSUPER GTに改名。
参戦マシンもそれまでのムルシエラゴから、2007年にはガイヤルドへと移行してゆく。
■S耐も
2005年からST2クラスに移行、ランサーエボリューションを駆り、2008年にはシリーズチャンピオンを獲得。
■2006年には、この年発足された新カテゴリー『JAPAN LE MANS CHALLENGE/全日本スポーツ
カー耐久選手権』
にも、同じくJLOCからムルシエラゴにて参戦。初年度は2回のみの参戦だったが、最終戦ではクラス優勝を遂げた。
■又、バックグラウンドでは、多彩なキャリアとノウハウを
武器
にカー雑誌・チューニング誌の紙面にも登場するなど
「ワダキュー」のニッネームで幅広い
“スピー
ドエンターティナー”ぶりを発揮している。
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